アクセス解析
【落武者魂】 2013年03月
fc2ブログ

落武者魂

L  O  S  T     S  Q   U  A  D  R  O  N  .

カテゴリ

検索フォーム

2013年03月

2013/03/06  哲学堂再訪

哲学堂再訪

 以前にレポートさせていただいた武蔵野の誇る哲学テーマパーク『哲学堂』。そこに再訪して来ました。というか、うちから自転車で五分くらいなのですけどね。そんなご近所をなんでわざわざ再訪などと銘打つかと言いますと、月に一回の建物内覧の日に訪問してみたからです。普段は形而の幕の内で隠された真実が、あらわになっているはずです。僕にもあなたにも、哲学の深淵がその姿を顕します。

 

 哲理門です。前回と違って、解説のプレートが置かれております。右側の説明は従前の通り、門の中に置かれているのはお寺と違って「幽霊」と「天狗」であり、形而上、形而下の不可知を象徴していると書かれています。その不可知なものを理によって解していくのが哲学であるという意味合いです。左側の説明板は、門にかけられた漢文の意味を記していました。その文を掲げた細長い板を聯(れん)と呼び、この聯は井上円了先生の筆によるものだとのこと。御存知の通り、井上円了先生は東洋大学の開祖。ちなみにこの聯に記されているのは要するに「門の中に置かれているのはお寺と違って「幽霊」と「天狗」であり、形而上、形而下の不可知を象徴している」ということでした。

 

 足を踏み入れると・・・もう春なのですね。梅が咲いています。
 哲学堂は、もともと和田山という地名でした。鎌倉時代の豪族である和田氏の館があった場所だからとのこと。もっとも、その痕跡はまったく発見されていません。という受け売り。まあたしかにこの場所は崖線の南端にあるので、南側に対する見晴らしは良かったんではないでしょうか。この和田山は現在は時空岡と呼ばれています(哲学堂的には)。

 

 入って左側に、宇宙館があります。前回は耐候パネルを貼っているだけのいいかがんな修復ではないか、などと書いてしまいましたが、どうやらそもそも壁がないのが本来の姿のようです。耐候パネルがいくつか外され、すだれが下がっていました。

 正方形の宇宙館に四十五度斜めに食い込んでいるような形で皇国殿が置かれています。この聖徳太子像はもともと外にあったものを移したものとのこと。宇宙館は講堂で、皇国殿が演台になっています。皇国の輝きで宇宙を満たそうとかそういうこととか。哲学堂は1944年に東京都から中野区に移管されたそうですが、戦後のGHQのバッシングとかなかったんでしょうか。京王帝都電鉄とかあるから、そんな小さいことは気にしなかったのかもしれません。



 幽霊梅。宇宙館のすぐ脇にあります。時空岡には天狗松というランドマーク的な松もあったそうなのですが、こちらはすでに枯死していて現存しません。



 宇宙館のてっぺんには烏帽子が置かれています。
 宇宙のてっぺんには皇威があるということです。たぶん。



 宇宙館の向かいにある絶対城の内部。絶対城の外観等は前回のレポートを見てください。一階は書架、二回は閲覧室になっていたようです。閲覧室とういっても畳が敷かれているだけでした。婦人読書室、という三畳の畳張りの間もありました。



 四聖堂。哲学堂の初めの地であり、もともとはこの建物こそが哲学堂だったそうです。この資生堂、ちがった、(しかし文字の変換のめんどくさいテーマパークだな、ここ)この四聖堂は東洋(釈迦・孔子)、西洋(ソクラテス・カント)の偉大な哲学者をリスペクトしています。



 天井から吊るされているのは四大哲学者の名前の額。聖孔、聖須(?)、聖釈、聖韓、と記されています。そしてさらに涅槃像まで。



 天狗松はこの六賢台の脇に立っていたと言います。かなり遠くからでも目立つ大松だったそうです。
 で、この六賢台も入って上ったのですが、ガラスが汚れていて展望も悪かったので次に行きます。



 ご存知、無尽蔵。倉です。ちょっとここで振り返ってみます。



 よい佇まいですね。



 無尽蔵へ戻ります。
 なんだかロボットの顔みたいな愛嬌のあるデザインじゃないですか?

 

 かつては円了先生の集めた、万国の物品が納められていたそうですが、現在ではそれらは区や大学などに寄贈されて空っぽです。変わりに哲学堂の歴史や、昔の写真などが展示されています。こういう写真を見ていると思うのですが、昔の日本は景色の見通しがいいですね。あまり木々が鬱蒼としておらず、ほどよく間引かれているようで。下草も刈り払われているので、欧州の景色のようにさえ見えます。どこかで現在の日本は足利時代以前なみに緑が濃いという報告も読みましたが、実際そうなのかもしれません。



 哲学堂の園内には梅園もあります。ちょうど梅の花が満開で綺麗でした。哲学の道を至れば、きっと華が咲く日だって有るに違いないのです。哲学堂の建設時にはこのあたりはひたすら森だったようです。田山花袋なんかの旅日誌を読んでも武蔵野は埼玉の方と違って原始の森のようだ、とまで言われています。それでも新興住宅地、あるいは都心からおいやられた工場なんかの立地する地として拓け、関東大震災を契機に宅地開発が一気に進んでいったそうです。そのころの住宅地や、工場はその多くが空襲で焼き払われました。
 それを思うと、この哲学堂が完全な姿で残ったというのは、やはり哲学の力は剣より強いことの証ではないでしょうか。ああ、僕も哲学の力でサクセスしたい。

※残念ながら今回は哲学ニャには出会えませんでした。
スポンサーサイト