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【落武者魂】 2011年05月16日
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落武者魂

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2011年05月16日

2011/05/16  BRM507 アタック日本海 2
2011/05/16  熱の中で

BRM507 アタック日本海 2

 ※まだ走り出してもいなかった。

 車検をしてスタートしようとするも、雨が降り出していたのでいったん自転車を端に寄せて背中のザックを下ろしてレインウェアをまとうことにする。上を着て・・・うーんけっこう降ってるなあ・・・ということでレインパンツも。とかやっていたら見知った顔はすでにいなくなっていた・・・。一人スタート。30分ほどすると雨も当たらなくなり、段々群れてきたし、振り返ると集団が長く続いていたのでサインを出して端に寄せて停止。ひとりレインウェアを脱ぐ作業へ移る。ようやっと越生か。宇宙友の会を越えて北上し、淡々と市街地を進む。まだ朝早くって交通量が少ないのだろうけど、かといって軽快に走れるような感じでもなく、帰路はきっと込んでるのだろうなとか考え始めてすでに気分が落ち込む。さて、ひとつめのPCまでは100km無いくらいの距離だったよな、腹減ったけどどうしようかな?とか思っていたらポンチャンとしぃちゃんがコンビニでくつろいでいたのでそちらへ。軽く挨拶してでていったら二人ともやってきたので3人列車で進む。運転手はしぃちゃんだ。そしてそのままPC1へ。ここのコンビニは非常にランドヌールに親切なところで、テーブルやいす、ドリンクなどの差し入れまでしてくれていた。心が温かくなる。そういえば、始めて糸魚川ファストランを走ったときに、冷え切った体で転がり込んだコンビニの店長が「東京から糸魚川!すごいすごい」とおでんやら何やらをくださったことがあった。やはりとてもうれしかった。僕もチャレンジする人に温かい人でありたいな。

 さて、とにかく初めの100km弱は終了。ここまでは語ることも特に無いという感じ。ここからは三国峠越えということだ。うわさには聞いたことがある三国峠。すごく狭く長いトンネルで自転車で駆け抜けるにはあまりに怖い・・・という話をよく効いたり読んだりした。なので個人的にはまったく行く気はしなかったのだけど・・・。行って、見てみるしかないな。



 コンビニでたらたらトイレとか行っていたらたのしいなかまたちにおいてかれる。ぽぽぽぽーんと飛び出ていったけど、すでに地の果てまでその姿は見えず、やむなくたんたんと走っていたら小さな峠でその姿をみかけた。わが鉄血長征号には29Tの大口径リアスプロケットが装備されているのでその火力で三国街道を粉砕、前進。みんなでいったん集まろうという話だったらしいコンビニも余裕でぶっちぎって三国峠を上り続けた。三国峠の特徴は・・・特になく、それほど一応幹線国道だけあって斜度もきつくないし道幅も余裕がある。恐れていた交通量もかなり少なくって拍子抜け。これなら奥多摩湖へ登るほうが大変なくらいだ。上のほうへ上がってくるとスノーシェッドがあったりしてそこはかとなく走りにくい・・・いや、それほどでもないなあ。という感じでたらたらやってても登れる山。峠そのものは悪名高き三国峠トンネルをくぐる。確かに長く狭いトンネルで路面も良くは無い。けどやはり拍子抜け。去年春にフレッシュのコースとして通った日足トンネル(日光-足尾間)のトンネルの方がはるかに長く、そして交通量がやばかった。でも、トンネルでリスクおうなんて馬鹿馬鹿しいので拍子抜けでいいのです。





 三国峠を抜けると・・・おお、苗場!大学生のときに一回だけ来たことあるなー。ああ、プリンスの脇のあのへんの民宿泊まったんじゃないかなー。さすがにスキーはやってないのかな?雪はちょこちょこ残ってるね。その後もあんまりスキーをやって無いから詳しくないのだけどいくつかのスキー場を抜けて走る。天気もよくなってきて暑いくらい。基本的に下り基調はいいんだけど、トンネルの路面が劇的に悪く狭く怖い。長くは無いのが救いだ(短くもない)。たしかにこの路面ではちょっと間違うと路面の穴にはじかれて落車のキケンがある。悪ければそのまま後続のトラックにプチっということも・・・いやいやそれは考えまい・・・。そこまでいかずとも、振動で部品が飛んでったり、パンクとかしかねない。と思っていたら一緒に走っていた仲間たちにそういったトラブル発生。しばしの休憩になるものの、ダウンヒルの遅い連中(僕とか)は先に次のPCへ向かおうとなる。塩沢石打?をすぎてしばらくは国道17号に沿って下るだけ。しかも追い風じゃないか!



 という感じで三国峠を挟んだ120kmほどを無補給無給水で走破。のぼりで気温が低かったおかげであまり水をのまなかったらしい。最後にはすっからかんだったけど。水を飲まないのはよくないんだけどね。

 PC2でみんなと合流して再出発。・・・・・・どんなとこだったかよく覚えて無いな・・・。やがて小さな峠にさしかかった。峠そのものは問題なかったのだけど、なんか・・・寒い。寒すぎる。ガタガタ震えがきた。どうにもこうにもなくなってレインジャケットを着込む。するとすぐに頂上じゃないか。そのトンネルを抜けるともっと雪景色。そしてダウンヒル。これはジャケットを着込んだオレ勝利、と思ったら、なんだか蒸し暑い。どんどん北上しているのに不思議なものだ。





 日が落ちる。ペースは悪くない。まったく予定通りの運行といった感じだ。このままいけば長岡に今日中に到着できるだろう。うまくいけば5時間休憩もできるくらい。600kmブルベといえど、4~5時間もホテルで休めるとなると単なる二泊ツーリングと変わりない(と思い込むのが大事)。はじめは寝ずに一人で走ったなあ・・・。モーテルで雑魚寝、車中仮眠、荒野の路肩寝、健康ランド寝、ときてついにホテル自室寝の時代になった。日本の宅配という強力なロジスティクスとビジネスホテルとのコラボは、僕の600kmブルベ観にコペルニクス的大転換をもたらした。もはやフグバッグは必要ないのか・・・そう思わせるほどの。



 雪国特有の雁木づくりの商店街を駆け抜け、僕らは走る。やがて日が落ち、PC3へ到着するまでに暗い遠の空がでちかっちかっと光る。それは遠雷。でもまだ、その不穏な雰囲気は僕にはわかっていなかった。街灯に照らされた住宅街を走りながら「ここが多摩地区だって言われてもわかんねーよなー」とかくだらないことを重いながら僕は走っていた。
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熱の中で

 結局まるまる一週間寝込みました。本当に高熱が出たのは最初の数日だったのですが、金曜の夜も茶漬けしか食えないような感じで、結局600kmブルベを走ることもできず・・・・・・。無念。こんなに体調を崩すのは久しぶり。一週間あれば快調まで戻せると思ったんだけども。ようやく今日、本当にまるまる一週間目で家から出ても大丈夫に戻りました。あとは咳だけ。その間、けっこうな時間をベッドの上でもやもやと過ごし・・・・・・10年ほど前のことを思い出したりしていました。ちょうどサラリーマンを辞めたころのこととか。

 10年ほど前、20台後半だった僕は20台前半だった友人たちと独立して会社を起こしました。場所は新宿の曙橋。「渡る世間は鬼ばかり」の鬼中華料理店幸楽のある(設定)で有名な曙橋です。フジテレビという巨大な企業が抜けてしまったこの町では、やや古めの雑居ビルの小さな部屋がたくさん空いていて、比較的安く借りることができたんです。といっても、すでに失われた10年でしたんで、どこでもそんなに高望みしなければ借りれたと思いますが。まあ客先を回る際の利便性や、秋葉原と新宿でいつでも機材などを調達できることなんかの便利さなどはあったと思います。町の雰囲気もこじんまりとしていて好きでした。

 僕らが初めに事務所を構えたのはその曙橋の雑居ビルの最上階(高層ビルなんかじゃないですよ、もちろん)。わずか6畳の居室に風呂トイレ別と廊下兼用のキッチン(のようなもの)が用意された小さな一室。そこに4人分の机と開発機材、サーバなんかを置いてのスタートです。なにしろわずか6畳にその装備。僕以外は体格のしっかりした仲間たちだったので、全員が同じ部屋に集うと移動が大変。トイレに行くのも一苦労と言った始末。空調はどうしてたんだろうと思いますが、たぶん壁掛けのクーラーを入れたんだと思うな。あと扇風機。

 この部屋の一番の思い出はゴキブリの多さ・・・。古いビルだし、飲食店も付近にあるから仕方ないとはいえ、どこからくるんだ?ってほどゴキブリがあがってきました。最終的に風呂の配管を伝ってきていると判断し、風呂部屋を閉鎖することで抑制しましたが、深夜2時3時に作業しているときにささっと視界を横切る黒い影におびえ続けることは終わりませんでした。ときには袖にゴキちゃんがぶら下がっていて「ギャー」と叫んだことも。

 部屋からの眺めはさすがに悪くなく、いや、下界を見下ろすというほどではないのだけど、けっこう緑の多い住宅地が窓から見渡せてちょっとした気分転換はできました。また、最上階だけあって屋上へもすぐに出ることができ、にっちもさっちもいかないときに日向ぼっこしたり、深刻な電話をするときなんかに使っていました。

 このビルにはこういう小さな会社の事務所も入っていましたが、普通に住んでいる人たちもいました。なのでそういう人たちを狙うセールスマンも来るわけです。僕らの事務所のスチールドアには会社の名前とロゴの入ったステッカーをマグネットで貼り付けていたんですが、どういうわけかセールスマンがやってくる。たいていは「ここは会社なんで・・・」で終わるんですが、来るなり早々「おとうさんかおかあさんはいらっしゃいますか?」と言われたことがありました。わたしとて小さいといえど会社を預かる身。はっきりとテキパキ答えましたよ「母はちょっと今いないんですが」。まあ、もちろん父も母もここにはいないんですけどね。

 来客といえば銀行の営業の方が来たことがありました。近所の地方銀行の支店の方でした。今思えば、というか当時思っても大人気ないんですが、さっさと帰ってもらいました。というのも、その支店は会社を起こすときの資本金の預かりをお願いしたときに門前払いしてきたとこだったんですね。門前払いには門前払い。大人気ないかもしれないけど、その銀行とつきあってもまったくメリットないし困ることもありえなかったんでお互いの時間資源のためにはむしろ良かったかと。

 この資本金預かりってのは当時、後ろ盾も実績もなく独立しようという若い人たちに対するひとつのネックになっていました。現在は商法の改正によりこの制度は大幅に変更されていて、今僕らが同じことをする場合には存在しないに等しいハードルになっています。当時のいわゆる旧商法では最低資本金というものがあり、株式会社では1000万円、有限会社では300万円を最低限の資本金として準備し、その証明を金融機関から株式払込金保管証明という形で得なくてはなりませんでした。これは資本金が単なる見せ金ではないこと、法人を設立する資金が暦としたものであることを保証するためのものだったのでしょうけど、なぜか金融機関が株式払込金保管証明を出すためにお金を預かるのを嫌がる時期があったのです(現在では資本金は1円からOKになり、有限会社という区分けが消滅するなど全然状況が変わってますので、このあたりの知識はまったく価値ありません)。

 資本金を預かったなら、そのまま会社が動き出したときにもその銀行と取引する可能性が大だと思うのですが、なぜか引き受けしてくれない、という情報が当時の若き起業家(w の間に流れていました。都市銀行はまったく引き受けてくれないから、地方銀行などの中小のほうが良い、という話だったので事務所の近所の地方銀行の支店へ行ったわけです。ガラスのように繊細な心の僕なので、断られるのは怖かったからですね。ところが、実際に行ってみると、ガラスの心を粉々に砕くような断られ方だったという記憶があります。いや、そんなにひどくなかったのかもしれないけど、とにかく門前払い・問答無用って感じだったようです。よく覚えてないけど。で、そのまんまの足で都市銀行へ行ったらすんなりOK。なあんだって感じでした。

 この株式払込金保管証明の問題は、ちょうどこのころから問題になっていて、引き受けされないというのと一定期間預けて無いとならないということでは、事業の遂行に支障をきたすということから前述の通り新商法では改正されています。どのように改正されたのかは知りません。いずれにしろサラリーマンから独立するぞーレベルの人にはもはや存在しないに等しい問題になっているはずです。僕らが会社を起こす際に大きな障害となったのはこの問題だけだったという気がするので、特に記憶に残っているんでしょうね。もちろん会社を起こしたあともいろいろあったわけですが、おもしろおかしい話になるのはやはり初めの2年間くらいかな。

 とにかくあれから10年・・・は経っていないようですが、応援してくれた多くの方々、支援してくれた人たちの存在、同時期に独立した同世代の人たちの姿、などなどに励みをや助けを得て今日の日があるのだなあと、そんなことを思いつつ寝込んでいたのでした・・・。